南関そうめんとは

南関そうめんの由来

 

南関は元「南の関」と称しました。
旧藩時代は参勤交代の街道筋にあたり
宿場として栄え、素麺造りが盛んでした。
其の起源は宝歴の頃と伝えられ、
明治、大正の頃までは
町の両側に戸ごと掛けならべてあったさまは
よき風物詩でもありました。

江戸時代南関には、関所と南関番所が置かれており“南の関”と称しました。参勤交代の豊前街道筋にあたり宿場として栄え、そうめん造りが盛んでした。上質な小麦、食用油がこの地で産出され、気候風土も適していたため発達したと言われています。

南関そうめんの起源は宝暦年間に旅の僧によって伝えられたとも、小豆島のそうめん職人によって伝えられたとも、伝えられています。最盛期の明治中期には、200を超える製麺所があり、町の両側に戸ごとかけならべてあったさまは良き風物詩でもありました。現在でも町内で11軒の製麺所が、昔と変わらぬ伝統の味と製法を守り、まったく機械を使わずに造り続けています。時代の流れに流され、機械化が進んでいった全国の麺業界、その中で長い間伝統の味と製法を守り続けた南関そうめんの職人魂、その心意気を後世に引き継いでいきたいものです。

南関そうめんは、江戸時代より品質の高さで知られており、肥後藩主細川氏は徳川将軍に、明治時代には、明治天皇へ献上されていた由緒あるそうめんです。昔ながらの完全手仕事を守っているために、生産量がごく限られており希少価値の高い高価な極上そうめんとして南関町の特産品となっています。

又、南関町にある母親の実家で生まれた歌人北原白秋はその著作の中で“私の第二の故郷は肥後の南関である”と記しています。南関そうめんを愛した白秋は南関そうめんを題材に詠んだ作品をいくつも残しています。

掛けなめて
 玉名乙女がこきのばす
  翁そうめんはながき白糸

 

北原白秋